洋野町観光協会

町の紹介 歴史 文化

町の紹介

増殖溝

 

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岩手県の北東部に位置する洋野町は、久慈広域圏に属し、北は青森県三戸郡階上町、南は久慈市、東は太平洋に面しており、西は九戸郡軽米町に接しています。

面積は303.20平方キロメートルで、山林が210.70平方キロメートル(69.5%)と地域面積の7 割を占めています。次いで耕地、宅地等を除いたその他面積が35.26平方キロメートル(11.6%)と地域面積の1 割程度を占めています。
洋野町は、概ね東経141°34′から141°47′、北緯40°12′から40°26′の位置にあり、海抜100m前後を境として、気温・降水量等に差異がみられ、大きく西部高原地域と東部海岸地域に大別されます。

西部高原地域は、夏季は東部海岸地域に比べて気温が4℃~5℃高く、冬季は積雪が多く、内陸型気候を示しています。一方、東部海岸地域は、海岸気象の影響を受け、春から夏にかけて「ヤマセ(偏東風)」に伴う濃霧が発生するため、湿度が高く日照時間が西部高原地域に比べて短い気象条件下にあります。

 

 

歴史

南部もぐり

001.南部もぐり 海に面した種市地区は、世界的に有名な“南部もぐり”発祥の地です。
“南部もぐり”は、昔ながらのヘルメット式潜水を今に受け継ぐ伝統の潜水技術です。
明治31年に貨客船「名護屋丸」が種市沖で座礁し、解体引き揚げのための房州(千葉)から4人の潜水夫が訪れました。その一人、三村小太郎が、現在の人夫として雇われていた磯崎定吉の筋の良さを見込んで、ヘルメット式潜水の技術を教えました。後に「南部もぐりの祖」と呼ばれる定吉は、潜りを本格的な職業とし、従弟制度を組んで技術を確立。海中工事のほか、収入の安定を得るためにホヤを収穫する仕事にも取り組みました。ヘルメット式の“南部もぐり”は、長時間の潜水が可能なことから、海中調査、土木作業などに向き、この分野で世界一の技術を誇っています。
現在、種市高校には世界でも珍しい潜水専門の課程があり、多くの卒業生が世界の海で活躍。海洋開発の基礎を担う技術者として欠かせない存在になっています。

大野木工

002.大野木工 里モノづくりの工芸品として大野地区に生まれた木工製品は、洋野町の山里文化を代表する特産品です。厳しくも豊かな自然の中で年輪を重ねてきた木を素材に、丸太を直径の長さに切る「半割方式」を採用して、美しい木目を最大限に生かしており、手にしたときに感じられる温かさは木ならではのもの。耐水性、保湿性、安全性に優れ、洗剤も使えるなど、取り扱いやすいことも特徴です。
誕生の背景には、1980年から村を挙げて始まった「一人一芸」運動。出稼ぎに頼らない生活を手に入れるため、村に伝わる手仕事をもう一度見直し、大学教授や他県の技術者などの協力を得ながら、“大野木工”は徐々にその姿を実現のものとしました。出稼ぎ大工の技術と豊富な山林資源を活かしたモノづくりの物語が秘められた“大野木工”は、本物志向が高まる中、風格とぬくもりがある工芸品として、全国の消費者から高い評価を得ています。

文化

ナニャドヤラ

004.ナニャドヤラ “ナニャドヤラ”は、青森県南部から岩手県北部に伝わる日本最古の盆踊りとも言われています。「ナニャドヤラ、ナニャドナサレノー・・・」と、呪文のようなフレーズが繰り返される歌の由来については、いくつかの説があります。民俗学者の柳田国男は、女が男に向かって「どうなりともなさるがよい」と呼びかけた恋歌だと言い、言語学者の金田一京助は、方言が崩れた言葉という説をとっています。ほかにも、ヘブライ語の行進曲からきているもので、大和民族を打ち負かすときに歌った進軍歌だという説もあり、謎めいた歌の不思議は深まるばかりです。
大正9年8月、種市の小さな旅館に泊まった柳田国男は、この盆踊りの鮮烈な印象を「浜の月夜」と「清光館哀史」という短編に著し、後に高校の教科書に掲載されたことがきっかけで、広く全国に知られるようになりました。現在も、洋野町には“ナニャドヤラ”が受け継がれており、お盆や祭りになると小さな集落でも踊っています。また、毎年8月に開催される種市夏まつりで“ナニャドヤラ”の流し踊りが行われるほか、大野地区でも、8月18日に岩手・青森・秋北の旧南部領内から参加する「北奥羽ナニャドヤラ大会」が開催され、各地区の特徴ある踊りを一度に楽しむことができます。

駒踊り

005.駒踊り かつて、この地方では馬を野原に放し飼いにしていて、2歳になると家に連れて帰りました。その馬たちを集める野馬取り行事を舞踊化したのが種市に伝わる「角浜駒踊り」の発祥といわれ、馬産信仰が農閑期の娯楽として伝えられてきました。12人が円陣を作って踊る“駒踊り”と、棒などを持って踊る「棒舞」があり、それぞれ7種類の演目があります。
一方、大野の“駒踊り”は、江戸の子どもたちに流行していた馬頭のついた竹馬遊びが入ってきて集団化したのが始まりと言われています。慶応の初め、鳴雷神社の祭典を最大にするため“駒踊り”が参加し、その際に駒の飾りに幣束をつけたのが今日まで伝えられています。 

瀧澤鶏舞

007.瀧澤鶏舞 風流念仏踊りの一種で、うら盆の精霊供養のために踊られる鶏舞は、岩手県では唯一、種市の瀧澤に伝わる貴重な民俗芸能です。由来は古く、高天原の天の岩戸開きにより、天照大神が岩穴に隠れたときに、鳥が鳴き踊った様子を表しているという説と、姥捨山に捨てられた父母の霊を弔った踊りという説があります。華やかな衣装をつけた華麗な舞が印象的で、10種類の演目があります。

和座神楽

008.和座神楽 旧南部領に属した岩手県から青森県にかけて見られる山伏神楽の一つです。種市の和座地区に伝わる神楽であることから、正式には「八龍権現和座神楽」と言います。藩制時代、和座の八龍権現は二万石の八戸藩からことにも大事にされたので、通称「二万石権現」とも呼ばれていました。
江戸時代の初めは全国をめぐり歩き、山伏の免許を手に帰ってきた種市家の先祖が、西光坊と名乗って祀ったもので、この神楽は「権現舞」をはじめとした12もの舞型で構成されています。
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